「熱波は続くよどこまでも♪」と歌いたくなる朝の気温。
日中はとうとう38度。
夕方から定例のThursday Seminar。
「各地からゲストスピーカーを読んで話してもらう」という、セミナーというよりは講演会みたいな形式。
初参加だし、なにげなく座ったら、右隣がフランク・ジャクソン、対面にキム・ステレルニー+フィリップ・ペティットというなかなか重量級の席になった。
今日のスピーカーはシドニーのPaul Redding。
きわめて近いところをやってる人だし、わたしにとっては大御所。
ヘーゲルの論理学の構想は、ライプニッツ―ルイス型の大げさな形而上学を巻き込んだ可能世界の理論より、実はStalnakerの「可能世界なしの可能世界意味論」(Modal Actualism)に近いんじゃないか/「難解だしようわからんし途方もないホラを吹いてるだけなんじゃないか」的な印象の強いヘーゲルのテキストを、もっと現代分析哲学に親和的な仕方で解釈することが可能ではないか、というような話。
(ちなみに、みんな「ストールナカー」あるいは「ストールネィカ―」)みたいな発音だった。やっぱり八木沢先生の表記が正しかった模様。)
わたし的にはすごくなじみがあるというか、「なるほどね」という話なのだけれど、みなさんヘーゲルはすっとばして可能世界の解釈問題それ自体につっこんだり、「いまさらヘーゲルなんてやってなんになるんすか」とかの冷たいつっこみ。
こちらからは、「ストールナカーの構想ってヘーゲルというよりむしろカントの超越論的観念論の方に近いんじゃないすか」的なことを聞いてみる。
(そしたら、「いや、わたしにとってヘーゲルはカント主義者ですから」というなかなかおしゃれな答えが返ってきた。)