23日、木曜。

哲学が入っている建物の工事が継続中。
 
新しい工程に入ったようで、朝から「キュイ~ン、ガイ~ン」と猛烈な騒音。
 
これはきびしい。
 
夕方からセミナー。
 
Deontic Disjunction。
 
選言を含んだ推論において、Oughtとmayが示す奇妙なふるまい(要するにRossのパラドックスとかProclastinating Professorの問題とか)を処理することのできる意味論を作ってみましょう、というお話。
 
ものすごく洗練された議論であることはよくわかるのだけれど、「可能世界のつながり方にいろいろ工夫を加えることで自然言語の振る舞い方に関する問題を解決して…」みたいなアプローチって何が面白いのかいまいちようわからん。

気質の問題というやつなんでしょうな。
 
「モダリティの問題って、義務論的なところまで含めて可能世界云々に持ち込んで議論しないとだめなんでしょうか?」とか聞きたくなってしまったのだがさすがに自粛。

「なんのための論理学(とくに意味論)?」というのが、わたしみたいな人間にはつねに問題意識としてあって、それが「いや、数学ですよ」と言われればとてもよくわかるのだけれど、ここまで話が広がってくるとなあ、と。

なんでそこまでなにもかも形式的な論理の話にしてしまう必要があるんですか、と。

ねえ。

でも、泣く子とメイン・ストリームには勝てねえ。