25日、金曜。

雨降り。

今日こそはいろいろ片付けなければ。

午前。昨日の発表がちょっと気になって、自分がむかし書いたものを読み返してみる。

(遠い昔にやってたことのような気がするのはなぜなんだろう?)

しかし、あらためて思うのだが、わたしの目からすると、カントという人は「自分の生き方」というのにひっかかりながら哲学をやってもがいていた人、というふうにしかみえてこないんだな。

こんなことしんどいしやりたくないんだけれど、本当のところをいうと逃げ出したくてしょうがないんだけれど、でもやらなくっちゃいけないことだし・・・。そういう、「ありふれたわたし」の目線からみた「やせがまんの繰り返し」みたいなところに「じぶんなりの人生」といったものが開けてきて、そこでようやく「人格の尊厳」だとか「有限な理性に基づく自律」だとか「道徳法則への尊敬」だとか、そういった抽象的な言い回しがリアリティを帯びた言葉として迫ってくるようになる、という。

わたしのカントというのはそういうどろくさいカントなんだな。

それだからどうも、「人というのはみんな抽象的人格として存在していて、自由の主体として平等なので、法的人格の平等を所有権みたいなところで確保して、それが定言命法の本当の読み方なんですよ」みたいな立派なことをいわれると、「それって本当にカントなんだろうか?」という気持ちになってしまう。

もちろん、後者のほうがまっとうなカントの読み方で、わたしみたいなのはテキストのすみっこにぽつんとでている閑話休題みたいなところに引っかかってるだけだ、というのが真相なんだろうけれど。

ただ、どうもこう、スパっときれいに割り切ったカント解釈というのにはなじめんのだな。

性分か。

カントがセラーズに置き換わっただけで、正直いまもおんなじようなことしかやってないわけだし。