授業ふたつ。
学生さんが、「単位をとるために授業をとっています」という言い分にはなんのおかしさもない。当然だ。
じゃあ、教員は、「学生さんに単位をだすために授業をやっているのか」と聞かれると、たぶん、そうでもないわけだ。
だって、「単位をだすだけ」であれば、採点の季節にほんの30分ほど、気まぐれに「この子は優かな/む、こいつは不可だな」と適当な評価さえ事務的に提出してしまえばそれですべてを終えることができるわけだから。
でも、たぶん、教員の側には、「単位をだすためのなにか」というか、「<単位以上に大事ななにか>というのがあって、それを伝えるために自分は授業をしているのだ」という気分があるのだろう。
だから、私の先生たちなんかには、「学生さんには単位とかなんとか、形式的なものよりも、もっと大事なものを勉強してもらえればまあそれでいいですよ/ちゃんとやってるかどうかは普段の話とか書いたものとかみてれば一発で分かりますから」という空気があって、私の場合もそういう先生方から大きな恩恵を与えてもらってきたわけだ。
教室にはいないかわりに自分で本を読んだり、とか、大酒をくらいながら(ときには先生相手に/いま思うと恥ずかしいような)議論をしたり、とかいうのをくり返すうちに、どういうわけか「大学で学ぶことの意味」というのが自分なりに感じとれるようになってたんじゃないかと思う。
あるいは、そういう先生方に対する尊敬心というのがいまでも心のどこかに残っているからこそ、単位がどうのこうの、という仕方で授業を運営することに私は抵抗感を感じるんだろう。
でも、「単位うんぬん以上に学生さんに学んでもらいたいなにか」という前提が崩れると、私の考えてるような話というのは大学教育のシステムそのものを無意味にする「ただの怠惰/管理不足」としかみなされなくなってしまうわけだ。
学生さんにとって、教員が「首尾よく単位を取得するための道具」でしかなくなった瞬間に、私もまた「出席」とか「試験の成績」とか、その他の機械的な基準でしか「単位に値するか否か」を判定できない状況に追い込まれてしまう、ということだろうと思う。
「勉強するやつは授業とは関係なく勉強する/授業で話したような内容だけが哲学講座で学ぶべきことではない」という前提が成りたってないんだろうな。
面倒くさいし、いっそ自分も「機械的に管理する僕」に徹してしまえば楽ちんなわけだな。
そうすれば、「不可」とつけてしまうのも気楽だぞ?