23日、木曜。

午後。Noeはベルリンに出かけたとかでセミナーは休講。

夕方からコロキアム。スピーカーはNYUのSharon Streetという人。お題はIn Defence of Future Tuesday Indifference。

タイトルをみた瞬間にちょっとうんざりしかけたのだが、またぞろ「メタ倫理」という名前を隠れ蓑にした思考実験のお遊びのような話。(パーフィットが悪い、といってるわけではないけれど。)

「内在的理由言明」に関してウィリアムズが提示した問題の重みというか、深刻さがどこかに消えてしまった感じで、個人的にはなんだかこれじゃあな、という印象。

ウィリアムズのいう「一人称」からみた理由言明の重み、というのは、パーフィットの事例とはずいぶん遠いところでしか成立しない議論なんじゃないか、としか思えないんだが。

(ちなみに、"Climbing..."の草稿は、また新しくバージョンアップされたものが密かに回覧され始めたんだとか。しかし、草稿の段階でここまで出回ってしまうと、いまさら出版されたところで買おうとする人なんかほとんどいないんじゃないだろうか。少なくとも、「話題の新刊」という印象はまったく与えないわけだけれど。)

"Idrally coherent eccentrics"の問題を真剣に考える必要がある、というのだけれど、彼女がたたこうとしているGibbardにしても、"Wise Choices"なんかの本でやってるのは"How to live"という問いとのつながりにおいて"rationality"の問題を考えてみよう、ということであって、現実の暮らしを構成するnormativeな視点を離れた「メタ的な関心」から彼が問いを投げようとしている、とはとても思えないんだな。

コースガードの弟子筋で、NYUに就職したのはたぶん二人いるのだけれど、二人ともが同じような話ばかりしているのはなんなんだろう。

師匠の極端な道徳主義が弟子筋に悪い影響として出てる、というのは意外とあたってる推測なのかもしれない。

Gibbard関連では、ストラウドの感想を聞きそびれたのが失敗。

懇親会。Social OntologyのほうにでていたKとしゃべっていたら、ふと壁にかかっている写真に目がとまる。

ビール瓶を片手に、「空」と書かれたTシャツをきた中年の男性が写真のなかでにこやかに微笑んでいる。よくみるとカラテの(?)Pさんだった。

そういえば、京都のあとで半年ほどバークレーにいたことがあったんだっけか?

妙なところで、世界的に有名な人だったんだな、と確認させられてしまう。