25日、日曜。



天満橋ABCの日。哲学は放棄して、英語を教える。いつも思うんだが、自分の適性というのはどこにあるんだろう? いわゆる世界のフロンティアで哲学をやるタイプじゃない、というのはよくわかるんだが。

最近の認識論とかよんでてても、これが「知的にエキサイティング」な議論であるというのがさっぱり感じ取れない。自分の感受性がたりない、ということでは決してないと思うのだが。こまかすぎるんだな、とにかく。それで何になるんだ、と。justificationとentitlementなりwarrantなりの区別というのも典型的にそれ。内在主義がいやだから、むりやりreadily accessibleでない規範性の審級、というのをでっちあげているだけなんじゃないだろうか。

認識論の議論に関しては、内在主義・外在主義の区別すらなんの意味があるのか把握できない。とくに、「知覚」のレベルでそのての話をされてもなあ。

これまでの議論にstipulationを加えて、議論をより精密に煮詰めればなんとかなるだろう、という戦略の議論は、やがてすべからく不毛な「線引き」・demarcationの問題を引き起こしておわり、という結果に終わるんじゃないだろうか。このあたりを面白がってやってる人たちもいるわけなので、そんなに単純な話でもないんだろうな、というのは感じないでもないのだが。

夜、家に帰って哲学なんてなんの関係もなくみんなで平和に眠る。そんなもんだ。

朝:サンドイッチ。昼:{め}でハヤシライス。夜:{め}の食堂でチキンピカタ