朝からサンフランシスコ。Twin Peaksのふもとにある日/米のバイリンガル小学校を見物する。
なんとなく、の数字でしかないのだけれど、小学校低学年の子どもだと、はやい子で三年、普通の子でも五年くらいこちらに住んでいればほぼネイティヴのレベルで英語が話せるようになっているんじゃないか、という印象がある。
最初のうちは、「うらやましいな、この子たちは得だな」とばかり思っていたのだけれど、よくよく観察しているとこれも「となりの芝生は青い」の一つだったのかもしれないな、という気がするようになってきた。
この子たちの話す英語を聞いていると、たしかにひごろのちょっとした表現に関してはアメリカ人そのものとしか思えないような話し方をしてびっくりすることがある。
たとえば、となりの子がスイカをガリガリ皮のところまでかじったのをみて、"He eats way deep!"と叫んだ子がいたのだが、これなんかは第二言語として英語を学んだ私にはとても思いつかない表現だと思う。
もちろん、日本語のほうも話し言葉に関してはほぼ完璧で、なんのよどみもなくぺらぺらとよくおしゃべりはしてくれるのだが、その同じ子どもたちでも文章を読んだり書いたりが驚くほどできない。
考えてみれば当然のことなのだが、日本でなら毎週4時間5時間とかけて勉強している漢字なり文章の音読を、基本的には半分かそれ以下の時間で学習しなければいけないことになるわけで、よほど優秀か熱心に勉強する子でなければ一から十まで完全にクリアしてくのは相当難しい、ということになるらしい。
理科の時間なんかでも、雨の降るサイクルを英語で"evaporation, condensation, precipitation"ということは勉強していいるわけだけれど、じゃあそれは日本語でなんというのか、ということに関してはまた別に時間をとって覚えなければならない。
要は、同年代の子どもにくらべて少なくとも倍近くの時間をかけて倍近くの量を吸収していかないことには、生まれてからずっと日本で育ってきた連中に立ち向かうだけの言語能力は身につかない、ということになるわけだけれど、これは友達とも遊びたいしテレビもみたいし、の小学校低学年・中学年の子どもにとっては相当酷な要求だということになるだろう。
もちろん、高校生になろうが大学生になろうが事情は同じことで、人に比べて常に倍の苦労を背負いながら進んでいかなくちゃいけない、というのはすごく負担の大きいことだろうと思う。
たしかに、「隣の芝生が青い」のは事実なんだけれど、その青い芝生を維持するには舞台裏でのそれなりの苦労が必要なんですよ、ということなんだろうな。
夕方。Bears練習。
夜。Alta Bates。ちょこちょこと細かい話を聞く。