27日、火曜。

イメージ 1 ヨセミテ二日目。

朝。例によってもたもたと準備しながら10時過ぎにホテルを出発。

昨日偵察にでかけたMariposa Groveに向かったのだが、ルートの入り口で「駐車場が満車でここから先は入れません」と足止めをくってしまう。

しょうがないので、明日でもいいや、とマリポサは後回しにして北上。Galacier Pointというところに向かう。

メインルートからGlacier Point Roadに入ってしばらくいくと道路わきは残雪で真っ白。標高にして7000フィート(2000メートル)をこえるということだし、例年だと、日本の連休中は雪で閉鎖されていることが多い、という情報もなるほどなあ、と納得がいく。

てっぺん、というか、いわゆるGlacier Pointは「見事」のひとこと。ちょっぴり曇り気味だったものの、ヨセミテの名所がかたっぱしからパノラミックに眺められたのはわざわざ時間をかけて登ってきた甲斐があったというもの。ふもとの集落が豆粒のようにみえるのは、中学とか高校のころ信州の山に登っていたとき以来の風景。

(ハイカーらしき人たちもたくさんいたようなので、歩いて登れたらもっとよかったのかもしれない。)

午後。移動中のおにぎりで昼食をすませつつYosemite Vallayまで。「でっかいなあ、すげえなあ」と芸もなく繰り返しながらEl CapitanやらYosemite Fallsやらをみる。

実をいうと、わたしは小学校低学年(三年生だったか?)のときに一度ヨセミテにきているはずなのだが、面白いことに圧倒的な自然の風景というよりは滞在中のちょっとしたエピソードのようなことばかりが記憶に残っている。泊まっていたロッジで指にトゲがささったのを母親にぬいてもらったこととか、父親が車の助手席で「いいにおいがするんだぞ」と普段はすわないメンソールのタバコを吸っていたこととか、「どうでもいいじゃないか」というようなことばかり覚えている。これは、まだ子どもだった自分にはまわりの岩とか山とかがまるでみえていなかった、ということの証拠なんだろう。

もちろん、20年かそこらで「みる側」の小学生が30代半ば近くのいいおっさんに変わったからといって、「みられる側」の主役たちはなにもかわりはしないわけで、「いつまでたっても変わらない自然」の「圧倒的な存在感」を前にしたときの気持ちを表すには、"awe"とか"sublime"とかいった言葉が一番ぴったりくる表現なのかもしれない。実際、何百年・何千年どころか何十万年単位で氷河が谷と岩をけずりました、といわれても、「勝負にならないどころか比較の対象にすらなりはしない」という程度の感想しか浮かんでこないんじゃないかと思う。

こういうのが、哲学じゃなくって詩を書くひとたちが相手にしている世界なんだろうな。

夕方。またtunnel viewで寄り道してからWawonaに戻る。

夜。今日こそは、とホテルのレストランで夕食。14オンス(って何グラムくらいだ?)のばかでかいステーキを食べてすぐに寝てしまう。