新聞をみると、先日の地震で亡くなった方もでた様子。
いろいろと授業準備。
「別に研究者養成機関ではないのだから」という事実を一方で抱えつつ、それでも「演習の授業は基礎訓練。で、訓練を生かしていざ本番は卒論」みたいな自分の皮膚感覚を引きずってるところがあって、結局はそこの思い込みを修正しないといかんのだよな。
演習それ自体が本番というか、その場に居合わせること自体が祭りになってるような、そういう形式と内容を考えたほうがいいのかもしれない。
しかし、じゃあ具体的にはどうすんだ、といわれるとそれがなかなか難しい。
あくまで「基礎訓練」にこだわって、クリシンなりエッセイ・ライティングなり、あるいは人前でプレゼンする練習の授業にしてしまうとか。
それだと「哲学」の看板に偽りあり、みたいなことになってしまうか。
語学とかだと、明確に「これだけは習得してくださいね」という基準があって、しかも三年(or大学院で二年)あればそこそこその基準をクリアできたりするんだろうが。
「どこめがけて卒業生を送りだそうとしているのか」、「どんな卒業生なら胸を張って<自分のところの生徒です>といえることになるのか」。
「3年で達成可能な理想形」を思い浮かべようとしてみるのだが、なかなかうまくいかない。
少なくとも、「デカルトはこうで、最近の反デカルト主義者たちはこんなことを言ってまして・・・」みたいにべらべらとしゃべる「プチ哲学物知り」にだけはなってほしくない、と思うわけだけれど。
哲学なんて、「10年、20年やってみてようやくなんぼ」としか言えないところがあるんだろうしな。
同じような悩みを抱えている人々と話したい気分。