10日、木曜。

夜中に調べものをしていたせいか、うまく寝つけず。久しぶりに寝不足の朝。

ぼんやりしながら用向きでElmwoodやらをまわる。

午後。誘われて、でてなかった法哲学系のワークショップに顔をだす。スピーカーはベルギー国ルーヴァン大学+ハーヴァードに所属の人。

実際には相当入り組んだ話をしていたのだが、大略、「言語的多様性」の幻想に振り回されて、リンガ・フランカの存在によって可能になる「安定したバイリンガリズム」の可能性と利益を見逃してはならない。

たとえば、日本でドイツ人、フランス人、日本人の三人がポスドクの研究職についたとして、全員が+2の外国語を学習するよりは+1で済んだほうがsolidarityの観点からははるかに有効だろう。

逆に、安定したバイリンガリズムが定着する場合(数十年先のアメリカ合衆国/EU圏においてその可能性はきわめて高いと思われる)、「言語的敗者」の立場に追いやられるのは一ヶ国語の運用能力しかもたないアングロフォンのグループであって、おそらく中国語と英語の両方をネイティブのレベルとして操る人間のグループが言語的勝者として浮上することになるだろう、という予測つき。

夕方。タナー講義最終日。

抽象名詞を用いた言語行為」が行われているとき、実際にはなにが生じているのか。

Jerome SchneewindとMartin Jayの実物をはじめてみる。

Schneewindは本を読んで予想していた通りの人。Martin Jayは思ったより若かった。(聞いてみると、『弁証法的想像力』は20代で書いた本だったらしい。ぎゃふん。)